「初恋の結末」 冒頭サンプル

 東堂さんたち三年生が部を引退すると、めっきり会う機会がなくなってしまった。部活なんて初めてだったから、引退してもたまには顔を出してくれるんじゃないかと思っていたらそんなことはぜんぜんなくて、先輩に会いたかったら自分から会いに行くしかない。泉田さんたちは寮でも会えるし、わざわざ学校で先輩たちを探す必要なんてないんだろうけど、オレは違う。三年生の教室まで押しかけて行って東堂さんに呆れた顔をされるのが、最近の学校での日課だ。
 ほとんど毎日、東堂さんとお昼を食べてる。ふたりきりのこともあれば、荒北さんや新開さん、福富さんと一緒だったり、黒田さんがオレより先に東堂さんと一緒にいたり。オレは東堂さんのことが特別に大好きだったから、ふたりきりがもちろんベスト。でも他の先輩たちと一緒に食べるのも楽しくて好きだ。けどだんだんと東堂さんもオレが顔を出すとみんなの中から抜けてきて、ふたりきりで食べることが増えていった。
 金曜日。そういえば、今週はずっと東堂さんとふたりきりでお昼を食べてる。そう気づいたら寒さも忘れるくらいに頬が熱くなって、隣を歩いている東堂さんの手を握って食堂まで駆けて行きたいくらいの気分になった。
 東堂さんは女子にモテるだけじゃなくて男子にだって人気がある。オレが東堂さんを好きだってことを抜きにしても、一緒にいて楽しい人だから、新開さんたちはもちろんオレの知らない友達もたくさんいて、お昼だって誘われることがあるはずだ。なのにまる一週間オレひとりに独占させてくれたってことが、もうたまらなく嬉しかった。
「どうした。急にご機嫌になったな」
「あは。すっごい嬉しいことに気づいちゃったんで」
「嬉しいこと?」
「今週、東堂さん独り占めだなぁって」
 にこにこ笑ってそう言うと、東堂さんは少し驚いた顔をした。
「言われてみれば、そうだな。おまえが毎日毎日飽きずにオレばかり誘いに来るから」
 東堂さんはそう言って苦笑した。でもそれは、独り占めさせてくれる理由にはならないと思った。だってはじめは新開さんたちが一緒にいるところに会いに行けば、東堂さんはそこにオレを入れてくれるだけだった。今日みたいに、みんなで話しているのにやってきたオレを見てそこから抜けてきてくれるようになったのはどうして? でもオレはそれは聞かなかった。
「来週も、オレが独り占めしていいですか?」
「なんだ真波、おまえそんなにオレと一緒にいたいのか? ずいぶん懐かれたものだなぁ」
 くしゃりと東堂さんの手がオレの髪をかきまぜる。ときどき東堂さんがやってくれるこれが、オレは大好きだった。だって少なくとも、好きじゃなかったらこんなことはしないだろうから。これは東堂さんがオレのことを好きだっていうしぐさのひとつだ。そんなの好きにならないではいられない。
 東堂さんはオレみたいにご機嫌に笑って、来週もお昼を独り占めする約束をくれた。それからはずっと、東堂さんのお昼休みはなにか用事がない限り、オレだけのものになった。
 お昼を食べ終えたら、だいたい東堂さんの教室まで戻ってチャイムが鳴るまでひたすら東堂さんのおしゃべりを聞いたりするのがいつものパターン。たまに別の場所に行くこともあったけど、することは同じだ。部活で毎日会っていた頃より、むしろ東堂さんと話す時間はずっと増えた。
 部活が休みの日には放課後にも東堂さんのところへ行って、早く帰れだとか課題があるんじゃないかとかこないだのテストがどうだとか、そんなことを言われながらも一緒に近くのコンビニまで行って、肉まんをひとつだけ買って半分こしたりもした。東堂さんはそんなオレの猛アタックに嫌そうな顔ひとつしなくて、いつだって楽しそうにしてくれていた。
 そうして過ごすうちに、オレと東堂さんの距離はどんどん近くなっていった。そのままの意味だ。会ったばかりの頃では考えられないくらい近くで、オレの話を聞いてくれるし話してくれるし、頭を撫でたりデコピンしたり、肩を叩いたり小突いたり、そんなスキンシップもかなり増えた。他の後輩とは違う、オレにだけの距離感だ。
 内緒話でもするみたいな顔の近さでの会話も当たり前みたいになった頃、オレはもうこれは勘違いじゃないと思った。隣に座るとき、肩がずっと触れ合ってても東堂さんはなにも言わない。どう考えても恋人同士の距離だろうって思うのに、ちっとも嫌がらない。オレは告白はまだだったけど、他の人たちにバレるのも気にせず全身で東堂さんを好きって表現していたから、東堂さんがオレの気持ちに気づいているのは確実だ。それでもこの距離を許しているんだから、東堂さんだってオレと同じ気持ちか、少なくともオレの気持ちに応えてもいいとは思っているに違いなかった。
 どう告白するか、それはもう悩んだ。オレは告白なんて一度もしたことがなかったから、具体的にどんなふうに言うかのイメージがなかなかできなかったからだ。されたことはそれなりに、まあ東堂さんほどじゃあないと思うけど、ある。でもそれは当然女子からで、やっぱり男子の告白の仕方とは違うんじゃないかなと思うと参考にはならなかった。
 告白でぱっと思い浮かぶのはバレンタインデーとか、卒業式とか、そういう背景のイメージ。でもさすがにそんなに待てない。
 じゃあ、とりあえず次にふたりきりになれたときに、ストレートに好きです、付き合ってください? それがいちばん普通で無難だろうけど、一応男同士でまず告白なんてしない相手だ。本気で言ってるんだとちゃんとわかってもらえないかもしれない。最近の東堂さんの態度を思えばそんな心配はいらないのかもしれないけど、まあ大丈夫じゃないかななんて軽くは思えないくらいにオレの気持ちは真剣だった。
 告白の仕方が決まらないまま、気づけば二学期が終わりそうになっていた。冬休みに入ってしまったら、しばらく東堂さんには会えなくなる。部活はあるから学校へは行くけれど、東堂さんのいる寮まで行く理由はそうそうつくれないだろう。だいぶ親しくなった今なら、冬休み中何度かくらいはどこかに誘ってもオーケーしてもらえるとは思うけど、三年生の忙しさがどんなものなのか見当もつかないオレにはなかなか難しいことだ。オレだってそのくらいの気は遣える。
 今学期、授業があるのは今日で最後。明日は終業式で、午前中に解散したらお昼を食べて午後はずっと部活がある。だから今年東堂さんに会えるのは、部活のないこの放課後で最後だ。
 授業を終えたあと、とっくに部活のない日を把握している委員長の怒った顔に背を向けて、オレは急いでプリントから逃げた。オレが走ってしまうとロードじゃなくても追いつけないから、委員長は追っかけてきたりはしないんだけど、オレはそのまま東堂さんの教室まで走る。今年は今日が最後だと思うと、余計に早く会いたくてたまらなくなってしまったからだった。
 三年の教室のある廊下まで行くと、新開さんがいつもどおりパワーバーをくわえて歩いているのが見えた。東堂さんもいるかと思ったけど、一緒にいたのは荒北さんだけだった。オレに気づいた新開さんが笑いながら手を上げた。
「よお真波。尽八なら教室で待ってたぜ」
「! 新開さんありがとー!」
 すれ違うときに言われたから、走るスピードをちょっと落として振り返りながらお礼を言う。そのとき見えた荒北さんは、思いっきり呆れてますって顔だった。
 東堂さんがオレを待っててくれてると思うと心が逸って、もうすぐそこの東堂さんの教室まで全速力で行きたい気持ちだ。でも荒北さんに叱られて時間を食うかもと気づいて、スピードはこのくらいを保っておこうと思いながら前を向いた。
 その途端、背中に荒北さんの声がかかった。
「おい真波ィ! 荒北センパイに挨拶はァ?」
「あははっ。荒北さん新開さんさよーならぁ」
 荒北さんに呼ばれたときは思わずちょっとびくっとしたけど、続いたセリフに笑ってしまう。言われたとおりに挨拶をして、それに新開さんか荒北さんか、もしかしたらふたりとも返事をくれてたかもしれないけれど、そのあとすぐに目的地に到着したオレにはもうそれは聞こえなかった。
 自分の教室の次くらいに慣れてしまった教室に入ると、東堂さんは白いコートを羽織って座っていた。カバンを机の上に置いて、ケイタイを開いてる。けど暇つぶしにいじっていただけなのか、オレに気づくとすぐにぱたんと閉じて立ち上がった。
「おまえ、走ってきたのか?」
「なんとなく」
「なんだそれ」
 東堂さんは少し笑うと、カバンを持って歩き出す。それを見て、ああ、オレを待っててくれたんだなぁと改めて思って、オレは走ったからじゃない熱で何秒かぼうっとしてしまった。別に約束なんてしてなかったのに、当たり前みたいに今日オレが東堂さんに会いにくると思って待っててくれたんだと思うと、そうなるくらいずーっと東堂さんにまとわりついてたのはオレなんだけど、嬉しくて仕方がなかった。
 すたすた歩いて先に教室を出た東堂さんを追いかけて、並んで歩く。靴を履き替えて、それで荒北さんたちにしたみたいにさようならなんてありえない。たぶん、今日もコンビニかな。確認するまでもなく東堂さんはその方向へと歩き出した。
 先週は、そこで肉まんとあんまんをひとつずつ買って、半分ずつにして食べた。あんまんのほうは東堂さんが割ったからきれいに半分だったけど、肉まんはオレがやったせいで半分とはちょっと言えない割れ方で、しかも見た目が汚かった。ちなみに先に割ったのはオレで、その惨状を笑ったあとできれいな半分のあんまんをオレに差し出す東堂さんはもちろんかなりのどや顔だった。そしてその器用さを自画自賛しながら、東堂さんはいつの間にか小さいほうの肉まんをオレの手から取り上げていた。
 東堂さんはそういう、ちょっとしたことでもすごく楽しそうにしてくれる。オレと一緒にいて、楽しそうにしてくれるっていうのがこんなに嬉しいことなんだって東堂さんのおかげで知った。今まではそんなことぜんぜん意識してなかったけど、気づいてからは東堂さん以外の人といるときにも嬉しいなと思うことが増えて、前よりもっと誰かといるのが楽しくなった。オレは東堂さんの、そういうところが本当に大好きだった。
「今日おでんにしましょうよ〜」
 コンビニが見えてくると、同時におでんののぼりが視界に入って思わず食べたくなってしまった。思ったまま口に出すと、東堂さんもそういう気分になったらしい。
「大根とぉ、たまごとしらたきと、あとウインナー」
「おでんでウインナーって食ったことないな……」
「そうなんですか? おいしいですよ」
「家でつくるとき入れないだろ」
「入れますよ! 東堂さんちは入れないんだ」
「入れんなぁ。最近はコンビニのおでんもだいぶ変わり種が増えたよな。いろいろ聞いたことはあるが、うちは定番だけだ」
「ウインナーは変わり種に入んないと思いますけど」
「いや入るだろ! 有名なだけで充分変わり種だろ!」
「え〜」
 東堂さんは割と頭が固い。食べ物でもあんまりチャレンジしたがらないし、名前だけじゃどんな味なのかよくわからないものはたいてい食べようとしない。でもおでんのウインナーなんて食べたことなくてもだいたい味の想像はつくと思うし、まずいわけないんだから食べてみればいいのに。
 レジの前で長々選ぶのは迷惑だからとコンビニの前でなにを買うかをふたりで悩む。オレはとりあえずウインナーは決定。オレが食べたいというより、食べたことないっていう東堂さんに食べさせてみたい。
 東堂さんを外に待たせてなにがあるのか見に行くと、ウインナーではなくてソーセージと書いてあったので戻って真っ先にそれを報告したらどうでもいいと笑われた。覚えられただけ挙げていくと、他にも東堂さんが食べたことのないものがいくつかあったから、じゃあそれ全部一個ずつ買おうと言ったら嫌そうな顔をされてしまった。どんだけ嫌なの。
 寒い中ようやくなにを買うかが決まったけど、思ってたよりも多くなってしまった。男ふたりだし、食べきれないなんてことはないけど、東堂さんは顔をしかめてううんと唸る。
「……ところで、もちろんこれは割り勘だろうな?」
「え〜っ。先輩なのに?」
「おまえな、先輩っていったって同じ高校生だぞ! バイトしてるわけでもないんだから少しは遠慮しろ!」
「東堂さんがファンクラブの人たちにブロマイド売りつけてるの、オレ知ってます」
「人聞きの悪いこと言うな! ファンの要望に応えているんだ、オレは!」
 ぐりぐりとわき腹を攻撃されて、慌ててコンビニの中に逃げこんだ。東堂さんはすぐに追いかけてきたけど、攻撃の続きをするつもりはないようで、オレを追い越してさっさとレジに行ってしまった。東堂さんが早速注文しているところに寄って行って、大人しく待つ。結局お金は東堂さんが少し多めに出してくれた。
 あったかいおでんを持って公園まで移動する。コンビニからいちばん近い、ブランコと砂場とベンチしかない小さい長方形の公園だ。
 肉まんだったら立ったままでも別にいいけど、さすがにおでんは座ってじゃないとふたりでは食べにくい。ベンチは少し汚れていて、気にせず座ろうとしたら怒られた。砂を払って東堂さんがなんとか納得できるくらいになってから、ようやく座る。
「東堂さん、あーん」
「……真波」
「だし巻きですよ? まずくないですよ〜」
 ふたを開けて、大きなだし巻きたまごを箸で小さく切って差し出すと、東堂さんはなんともいえない微妙な顔で黄色いそれと見つめ合った。だいたい三秒。東堂さんは短いため息をひとつ、それから諦めて口を開いた。
 東堂さんは一口が小さめだ。だからだし巻きたまごも小さく切ってあげたんだけど、そのサイズに合わせてそっと口を開くのがなんだかすごく見ちゃいけないものみたいに思えて、オレはこっそり目を逸らした。けどそれよりも、箸から伝わった感触のほうが大問題で、これはしばらく忘れられなさそうだと思った。
「おいしい?」
「ん……まあまあだな」
 それからは、東堂さんも自分の分の箸を出してだいたい半分ずつになるようにゆっくり食べた。だし巻きたまごはちょっと渋ったくせに、ウインナーは割とあっさり食べていて、だし巻きたまごを食べて気にならなくなったのか、それともなんだかんだ言ってもともと興味があったのか、よくわからないけどおいしそうに食べていて、やっぱり買ってよかったなと思う。
「今日で、最後ですよねぇ」
「なにがだ」
「東堂さんに会えるの」
「ん?」
「今年最後じゃないですか」
「ああ、そうだな。……おまえ言い方わかりづらいぞ」
 とんっと肘で軽く小突かれる。
「真波、おまえ、三学期までオレに会えなくなるのが寂しいのか!」
「そうですねぇ。それなりに」
「それなりにとはなんだ」
 東堂さんがむうっと不満そうな顔をする。譲ってもらったおでんの残り汁を飲みながら、それを見てにやけそうな顔をカップで隠した。
「東堂さん、冬休みはどっか行くの?」
「いや、残念ながら特に予定は入っていないな。去年と違って部活もないからなぁ。勉強くらいしかやることがない」
「みんなで初詣とか、行かないんですか?」
「初詣なぁ。終業式から数日は寮にいるが、さすがに年末年始はみんな帰省してしまうからな。家がだいぶ遠いやつもいるし、なかなか集まりにくくてな」
「そーなんだ」
 てっきり、みんなで集まって行ったりするんだと思ってた。
「東堂さんは、近いですよね?」
「む? ああ、まあな」
「オレと行こうよ」
 なんてことないように軽く言ってみたけど、口に出した途端にどきどきと自分の心臓の音が大きく聞こえだした。今にも飛び出しそうなのは、もしこれを東堂さんがオーケーしてくれたら初めてのデートだと思ったからだ。
「初詣にか?」
「うん。いや?」
「嫌ではないが、おまえ、いいのか? 家族とか、幼馴染みの子とか、一緒に行く相手はたくさんいるだろうに」
「だって家族も委員長も冬休みでも会えるけど、東堂さんには会えないじゃないですか。一緒に行こうよ」
 もう一度改めて誘うと、東堂さんは今度はすぐにオーケーしてくれた。デートの約束だ。学校も部活も、ロードも関係なく、東堂さんとふたりきりで出掛けるなんて初めてのことで、まだ冬休みも始まっていないのに今から楽しみで仕方ない。
 やったぁ、と言って勝手にゆるゆるになって戻せない顔を隠さず向けると、東堂さんは笑ってオレの頭を撫でてくれた。オレのこと、好きじゃなかったら絶対向けてもらえないだろうってくらい優しい表情。オレが東堂さんに大好きって表現するといつも見せてくれるこの表情が、オレは本当に好きで、大好きで、一生独り占めしたくなる。
 頭を撫でてくれていた手が離れていく。それがいつにも増してさみしく感じたのは、寒いせいもあったかもしれない。今日別れたら初詣までぜんぜん会えないせいかもしれない。とにかくオレは、もう我慢ができなくて、ちゃんと告白しようとしてたのも忘れて、つい、ほんの少し残っていた東堂さんとの距離を、詰めた。
 唇が触れた瞬間、東堂さんは勢いよくオレから身体を離した。驚いて目を開けると、東堂さんはオレ以上に驚いた顔をしていて、心臓の辺りがさっと冷えるような感覚と同時に頭の中が真っ白になった。
「あ……の、ごめんなさい……」
 それしか言えなかった。東堂さんは少しだけ開いていた口を閉じて、オレから目を逸らした。またほんの少しだけ身体が離れていく。それがとても悲しかった。
「……よく、考えれば少しおかしな距離だったかもしれんな。その、今まで同性とこういう、考えたことがなくて、ご、誤解させてしまったなら、すまない」
 目を合わせてはもらえないまま、東堂さんは早口にそう言った。東堂さんがこんなに動揺しているのは初めて見たし、うまくしゃべれていないのも初めてだった。
 どういうことなのか、東堂さんの反応で理解はすぐにできていたけど、真っ白だった頭の中にようやく言葉として浮かぶ。
 オレの勘違いだったんだ。東堂さんは、オレの気持ちなんて気づいてなくて、男同士なんだからそれが当たり前で、東堂さんもオレのことそういう意味で好きかもだなんて全部、オレの勘違いだったんだ。
「ごめんなさい。オレ、勘違いして……気持ち悪いことして」
「真波……」
 そろりと東堂さんが視線をオレに戻す。けど今度はオレのほうが耐えられなくて、下を向いてしまった。
 東堂さんが立ち上がる。言葉を探すような少しの沈黙のあと、いつものとは違う、まだ動揺が抜けきっていない声でこう言った。
「さっきのことは、忘れることにする」
「……はい」
 そう絞り出すので精一杯だった。オレの喉は凍りかけてるみたいにかたくて、いつもどおりの声が出なくて、それ以上はもう声が出そうになかった。東堂さんもそれ以上はなにも言わず、気まずそうな顔で、動かないオレを残して帰った。
 寒さなんてどうでもよかった。オレはしばらくそのままベンチに座り続け、母さんからの着信ではっとした。オレがすぐに帰ってこないから、夕飯はどうするのかって用件だった。今から帰る、夕飯もちゃんと食べると答えて電話を切る。
 立ち上がると、足が冷えてカチカチになっていた。手に持ったままだったおでんのカップを捨てに行く。中に二膳入った箸を見て、東堂さんにだし巻きたまごを食べさせてあげたときのことを思い出した。
 ついさっき、箸越しで東堂さんの唇を感じたとき、オレは直接触ってみたくてどきどきしていた。でも今は胸が痛くて苦しくて、一瞬だけ触れた東堂さんの唇の感触なんて、ちっとも思い出せなかった。

 終業式はサボった。というか、起きたらそろそろ終業式が終わるだろうって時間で、オレは時計を見てすぐに諦めてゆっくり支度し、家で少し早めのお昼ご飯を食べてから登校した。
 登校したらとりあえず教室へ向かう。もし誰もいなくて鍵が閉まってたら、冬休みの課題はたぶん委員長が持って帰ってくれてるだろうからそのまま部室に行こうと思った。だけど教室にはまだ何人かいて、委員長はオレの席の前でオレの分らしいプリントをそろえて待ち構えていた。
「……おはよう委員長」
 見るからに怒っていたので、とりあえず笑って挨拶をしてみる。
「〜っさんがく!」
「ハイ」
「今何時だと思ってるの!?」
「時計はあっちに」
「そうじゃない!」
 教室の時計を指さしたら怒られた。失敗したなぁと思いながら、委員長がすぐに持って帰れるようにそろえていてくれたプリントをリュックにしまう。それが終わってもいつの間にか始まっていた委員長のお説教は止まる気配がぜんぜんなくて、怒っているときの委員長はもしかしたら東堂さんよりトークが切れるのかもしれない。
「……」
 部活に行かないと、と思った。チャックを閉めたリュックを背負いなおす。委員長が口をいったん閉じて、オレを見上げた。
「さんがく、もしかしてあなた具合悪いの?」
「えっ。なんで? ぜんぜんそんなことないよ」
 本当だ。昨日、寒い中しばらくぼうっとしてはいたけどそこまで長い時間でもなかったし、食欲もいつもどおりで夕飯もさっきのお昼もしっかり食べた。寒気も頭痛もなにもないし、そもそもオレはちょっとでも具合が悪くなりそうだったらすぐにわかる。もう何年もそんなことないけど、それは今でも変わっている気はしなかった。
「でも、なんとなく顔色が悪いような……今日は部活、休んで帰ったほうがいいんじゃない?」
「ほんとになんともないよ」
 心配そうな委員長が代わりに先輩たちに言いに行ってあげるとまで言い出して、ちょっと困った。泉田さんたちのメールアドレスも電話番号も知ってるから、そういう連絡は自分でもできる。そもそもオレは元気だし、部活にはちゃんと行くつもりだ。
 委員長は身体が弱かった頃のことを知ってるからか、ちょっと心配しすぎているみたいだけど、大丈夫だからと言ってなんとか納得してもらって教室を出た。
 部室へ向かう途中、福富さんたちと四人で帰ろうとしている東堂さんを見かけた。少し離れているけど、すぐにわかる。みんな目立つなぁ、と思いながら足を止めた。
 もこもこな新開さんが、昨日と同じ白いコートを着た東堂さんに横からのしかかるようにくっついた。なにも聞こえないけど、たぶんふざけ合っているみたいで、東堂さんが楽しそうに笑っているのが見えた。荒北さんが嫌そうにちょっと離れる。けど東堂さんが近くにいた福富さんを巻きこんで、それを見た荒北さんが戻ってくる。そこで、四人が校門から出て見えなくなった。
 立ち止まったままぼんやりと、仲良しだなぁと思う。もう、嫉妬もしなくなった。どんなに仲良くしていたって、新開さんも福富さんも荒北さんも、たとえ巻島さんだって男だってだけで東堂さんにとっては恋愛する相手には絶対になりえないんだと思うと、沈んだ心に嫉妬なんて浮かんでこなかった。
 東堂さんにとっては男だっていうだけで、どれだけ仲良くなっても近くなってもたとえば姉弟みたいに恋愛なんてありえない相手なんだ。東堂さんがキスをするのは一生女子とだけで、本当だったらオレはキスどころか手を握るのだってまずありえない相手でしかなかった。
 思っていた以上に同性ってハードルは高くて、オレはそれをわかったふりして実のところたいしたことじゃないと思っていたんだろう。東堂さんもきっとオレのことを同じように好きでいてくれてるなんて、どうしてそんなふうに思えていたのか、今となっては思い出せない。
 男同士だってことを少しも気にしなかったわけじゃないけど、オレか東堂さんのどっちかが女子だったらなんて考えたこともなかったし、東堂さんにとって男との恋愛がありえないものだと知った今でもほんの少しも思ったりはしなかった。東堂さんが男だから好きになったわけではないけど、もし男同士じゃなかったら東堂さんを好きになるきっかけだって生まれなかった。こんなに好きになれる人に気づけないまま人生が進んでいくなんて、今のオレにはとてもじゃないけど考えられないことだったから。
 でも、もう諦めないといけないんだ。
 東堂さんは昨日、最後に忘れることにすると言った。それはオレが東堂さんのことを好きだってことを忘れたいからなんだろう。東堂さんはオレにそういう意味で好かれているのが嫌で、なかったことにしたいんだ。男にキスされたことも、男を勘違いさせたことも、忘れたいんだ。
 東堂さんが……東堂さんが、嫌なら。
「諦めないと……」
 小さく声に出してみると、苦しかった。別に泣きそうだったわけじゃないけど、一度鼻をすすって歩きだす。オレは部活に行かないといけなかった。
 部室に着くと、真っ先に黒田さんから遅いと言われてしまった。それはもう慣れっこなので、笑ってごまかしてロッカーへ向かう。すると今度は泉田さんが近づいてきて、委員長と同じような心配をされてしまった。
「真波、なんだか元気がないな。大丈夫か?」
「ええー。そんなことないですよ。元気ですよ? あ、熱はかりましょうか? 絶対平熱だから」
「いや……うん。体調が悪いわけじゃないならいいよ」
 泉田さんの心配は、委員長と違ってそれで終わりだった。帰るように言われなくてよかったと思った。
 誰にも気づかれないように、そっとため息をつく。オレ、そんなわかりやすいかな。